3/15 音曲口伝を読む

(文責 幹事長I)

勉強会

名称 世阿弥の音曲論を読む・その1
主催 稲門観世会
会場 神明いきいきプラザ
時間 14時30分~16時30分
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新たに知ったこと

※特に記載のない限り、引用は『日本思想体系24 世阿弥・禅竹』(表章・加藤周一 岩波書店 1974.4)によります。

1.音取り

「吹物の調子を音取」るというのは、稽古においての話だと思っておりましたが、そうではなく、座敷で謡をする場合のことであるそうです。確かに稽古は本番の時のようにするもので、風曲集にも以下のようにあります。

 

 声を使い、音曲をなす事、只、私にて、ひとり謡稽古する共、貴人の御前、晴れの座敷の態に心をなし

て、これを謡ふべし。身の姿などをも、座断して、調子の音取り、〔扇〕拍子までも、まことの広座の

出事の身心に定意して、少しも私と存ぜずして、心中には誓文を誓て、一大事の時節の態にて歌べし。

 

節を基準に断てば、一様な旋律を奏でることのできる尺八が出来るそうで、吹物というのはこれのことだそうです。ところで、座敷謡というのは、囃子方も地謡もなく、只一人で謡うもので、能とは別の稼業として当時の役者の多くが行っていたことだそうです。

 

2.相音

「横の声」「竪の声」というのは、響かせ方の種類で、表裏のようにそれぞれの声を引きつけて謡うのが、音曲として面白いものと思っておりましたが、音曲口伝における相音は、そのようなことで言われているわけではないそうです。二つの声というのは、それぞれの声の質に合わせた響きのことで、相音というのは、どちらにも適した性質の声を持つ人の訓練すべき響きなのだそうです。

一方、前述の、表裏のような関係にある声も少し後の部分に書かれています。「祝言の声」「ぼうおくの声」です。二つの声の定義について、具体的な記述は多くありません。「祝言の声」については「機を体にして、機に声を付て出だす声なり。是、強き音声也。」とあり、「ぼうおくの声」については「声を体にして、機をゆるく持つ。是、柔らかに弱き心なり。」とある。前者について「呂の声の性根」、「喜ぶ声」、「出る息の声」と書かれ、後者について「律の義、あはれなる性根」、「〔悲しむ〕声」、「入る息」と書かれているが、これらは全て、両者の対称性、真反対であることを示す要素であって、比喩に過ぎない。これは誠に思いがけないことでしたが、「息を出だす義にあたるべし」、「入る息の心なり」と書かれているのであって、息を出して響かせる声と息を入れて響かせる声の二つを使うように、とは書かれていないのです。

 

3.曲舞

小歌と現在の能楽の謡が拍子において異なる、ということは、「花月」「放下僧」の謡を引いて良く紹介されることでありますが、猿楽はそもそも小歌節であって、曲舞と融合させる発明があって、今の謡につながった、ということはお聞きしたことがありませんでした。そもそもの曲舞の謡というのは、七五調でない平の文章を、文節を無視して七五調の拍子で謡うというものだったそうです。したがって、現在の謡というのは、拍子においては、曲舞の謡であるのですが、旋律としては小歌に近いということになるのでしょう。狂言の謡は、謡曲に出てくる小歌の謡に良く似ていますし、狂言で「放下僧」の小歌を聞いたこともあるのですが、能の謡がかつては、狂言の謡のように拍子より旋律を重視したものであった、というのは思いがけないことでした。

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